昭和の時代、日本社会の会社組織の多くは運動部出身の体育会系人間が幅を利かせていました。
上には絶対服従。「できません」は禁句。命令や指示には大きな声で「はい!」以外の返答は存在しません。 殴る蹴るの暴力も「指導」と言えばまかり通る。能力よりも滅私奉公な忠誠心が評価基準の世界。ひとたび組織の調和を乱す者と認定されると、陰湿なイジメの標的になることも。体育会系は表面ほど明るく健全な世界ではありません。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉があります。古代ローマの詩人ユヴェナリウスの言葉ですが、じつはこれ誤訳で、もとの意味は「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」です。「べきである」であり、「宿る」なんて断定していません。むしろそうなっていない現実に苦言を呈した言葉でした。戦争が多かった時代背景を考えると、肉体ばかり鍛えた戦士達が大きな権力をもっていたのでしょう。
誤解のないように言いますと、筆者は体育会系の全てを否定するつもりはありません。人生では頭を筋肉にして踏ん張るべき時もありますし、組織運営においては厳しい上下関係が必要な場合もあります。実際、日本の高度成長期においては、是非はともかく体育会系のノリが経済成長に一役買ったことは否めないでしょう。
しかしながら体育会系も行き過ぎると腐敗を生みます。
昭和や平成初期での閉鎖されたコミュニティではうまく機能していました。異論を唱える者は排除して蓋をして終わりだったからです。しかし現代では、社会のグローバル化やインターネットの普及により、組織ぐるみの隠蔽が難しくなってきました。そして今では時代の流れから、体育会系の組織は歓迎されなくなってきており、個人を尊重する風潮になりました。組織が個人の人格を否定するようなことは許されなくなったのです。
その結果、皆が心地よく過ごせるような社会になったかというと、そうでもありません。個人を尊重し過ぎた結果、組織の運営に支障をきたしたり、自分を守るためなら他人の人格を否定しても躊躇がない者も増えました。SNSでは、自分が正しいと証明するために多数の個人が1人を徹底的に攻撃するなんて事も当たり前に起きています。
行き過ぎた体育会系の組織主義は腐敗を生みますが、逆に個人を尊重し過ぎると社会が成立しなくなってしまいます。両極端に針が振れることなく、真ん中あたりで調整できればバランスの取れた世の中になると思うのですが、なかなかそうはいかないようです。


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